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野生は、静かに入れ替わった…この10数年で日本の動物たちに起きている変化

野生は、静かに入れ替わった…この10数年で日本の動物たちに起きている変化

増えたわけでも、
消えたわけでもない。
環境が変わり、
“見える位置”が変わっただけだ。

野生は、静かに入れ替わった

――この10数年で起きた、日本の動物たちの変化

最近、ふとした瞬間に、違和感を覚えることがある。
通勤や買い物の帰り道。
夕方の田舎道や、街灯の下。

以前より、よく目に入る動物がいる。
そして、確実に見なくなった存在もいる。

それを人は、簡単に言葉にする。
「増えた」「減った」「異常だ」「最近はおかしい」。

けれど、現場で起きていることは、
もっと静かで、もっと合理的だ。

これは事件ではない。
誰かのせいでもない。
環境が変わったことで、野生の配置が入れ替わった。
それだけの話である。


かつての日本には、
はっきり名前を付けにくい場所が、数多く残っていた。

雨が多い年だけ広がる水辺。
季節によって水位が上下する小川。
手入れされすぎない水田の縁や、草に埋もれた溝。

人にとっては扱いづらく、
管理もしにくい。
「効率が悪い」とされがちな場所だ。

しかし、多くの野生動物にとって、
そこは生活の中心だった。

餌は一斉に現れ、
しばらくすると消え、
また別の場所へ移る。

毎年同じではない。
年ごとに条件が違う。
だからこそ、
行動も、移動も、繁殖も、
揺らぎを前提に組み立てられていた。


ところが、この10数年で、
その揺らぎは急速に失われていく。

水は管理され、
土地は均され、
境界は分かりやすく引かれた。

「毎年同じ状態」であることが、
良いことだとされるようになった。

人にとっては、
安全で、効率的で、予測しやすい。

だが、野生にとっては違う。

同じ状態が続くということは、
逃げ場も、選択肢もないということ
だ。

こうして、
水や季節の変化に強く依存していた動物たちは、
数を減らしたというより、
舞台そのものを失っていった。

彼らは消えたわけではない。
今もどこかにはいる。
ただ、
私たちの生活圏と重ならなくなっただけだ。

一方で、
以前より頻繁に目に入るようになった動物たちがいる。

彼らは、特別に変わった存在ではない。
荒々しくなったわけでも、
大胆になったわけでもない。

共通しているのは、
自然と人のあいだに生まれた「境界」を使えるという点だ。

完全な自然でなくていい。
山奥である必要もない。

餌が集まり、
見通しがよく、
移動しやすい場所。

そうした条件が、
今の日本には大量に生まれている。

これは順応であって、
変質ではない。

環境が読みやすくなった
ただ、それだけだ。


ここで、よくある誤解が生まれる。

「最近の動物は、人を恐れなくなった」
「昔とは性格が違う」

しかし、行動の仕組みそのものは、
ほとんど変わっていない。

変わったのは、
奥へ行っても得られるものが少なくなったこと。
季節の恵みが安定しなくなったこと。
人の生活圏と、野生の空間が切れ目なく繋がったこと。

つまり、
避け続ける理由が減った

それを、
「動物が変わった」と感じているのは、
人の側だ。


この変化を、
善悪で語る必要はない。

これは異常ではない。
選別の途中経過だ。

揺らぎを必要とする存在が後退し、
境界を使える存在が前に出る。

それは悲劇でも、
自然の暴走でもない。

環境が均一化した結果として、
必然的に起きた再配置
である。


今、見えなくなった存在は、
何も語らない。
抗議もしない。

ただ、
条件が合わなくなった場所から、
静かに退いていくだけだ。

そして、
今よく目に入る存在もまた、
環境がさらに変われば、
同じ立場に回る可能性を持っている。

野生は、
人に説明するために生きていない。
ただ、条件に応じて場所を選び続ける。


これは警告ではない。
対策を迫る文章でもない。

この10数年で起きた、
野生の配置換えを記録しただけの話
だ。

気付くかどうかは、
こちら側に委ねられている。

人にとっては短い10数年。
野生にとっては、
取り返しのつかない時間になることもある。

その境目に、
私たちは今、立っている。