
【第4話】
最期まで残る“匂い・声・触覚”──
感覚の終末期と、ケアの本質に触れる**
終末期のケアにおいて、
多くの飼い主が抱く不安のひとつに
「この子は、まだ私のことが分かるのだろうか?」
という問いがあります。
体が弱り、
目の焦点が定まらなくなったり、
反応が鈍くなったりすると、
どうしても“届いていないように感じる瞬間”が増えていきます。
しかし、私はこれまで数多くの最期に立ち会い、
ひとつ確信していることがあります。
■ “感覚の終末期” は、順番に静かに閉じていく
動物の感覚は、終末期に向かうにつれ
ある順番で静かに弱っていきます。
神経生理学的にはおおむね次のような流れです。
● 視覚の低下
● 聴覚の低下
● 痛覚・体性感覚の過敏化
● 嗅覚の保持
● 触覚(圧感覚)の保持
● 飼い主の声の低周波成分への反応
つまり──
視覚や高音の聴覚が弱くなっても、
匂いと声と触覚は、最期の瞬間まで届く。
この事実は、数えきれない最期を見送ってきた私の経験と、
神経学のデータが一致している部分です。
飼い主の声の響き、
手のひらの温度、
いつも衣服につく生活の匂い──
動物はそれらを、
文字通り「最後の手がかり」として感じ取っています。
■ 視覚は最も早く弱る──でも“存在”は感じている
視覚は、とてもエネルギーを使う感覚です。
そのため終末期には最も早く機能が落ちていきます。
目が合っていないように見える。
こちらを見ているのか分からない。
反応が遅い。
これらは“認知の低下”ではなく、
単に視覚に頼らない状態に切り替わっているだけのことが多いのです。
視覚が弱まると、
動物は自然と「匂い」と「音」に依存しはじめます。
だから、目が合わなくても落ち込まなくていい。
その子は、
あなたの “気配そのもの” を感じ取っています。
■ 聴覚は「高音」から弱り、「低音」が最後まで残る
動物の聴覚は、
高齢や終末期になると 高音域から衰えます。
これは人間の老化と同じです。
しかし、ここで重要なのは──
低周波の成分は、最後までよく届く。
あなたが静かに呼ぶ名前、
胸の奥から発するゆっくりした声。
これらは、
衰えた体でも十分に受け取れる“安心の信号”になります。
逆に、
泣き声・高音・早口などは刺激になりやすいため、
終末期には「音の余白」がとても重要です。
私は現場で、
飼い主の声に合わせて呼吸のリズムが緩む瞬間を何度も見てきました。
それは、確かに届いている証拠です。
■ 嗅覚は最期まで残る──“あなたの匂い”は強い安心材料
犬や猫、その他多くの哺乳類にとって、
嗅覚は最も原始的で、最も強い感覚システムです。
終末期であっても、
嗅覚は他の感覚より長く保持されます。
だから──
● 飼い主の衣類をそばに置く
● 一緒に過ごしたブランケットを胸元に敷く
● いつも寝ていた場所の匂いを残しておく
こうした“匂いのケア”は、
言葉以上にその子を安心させます。
匂いは
「自分はひとりではない」という存在の確認
そのものです。
■ 触覚は、痛みと安心が紙一重
触覚は非常に重要な感覚ですが、
同時に終末期には扱いが難しくなることがあります。
● 痛覚過敏
● 筋緊張
● 体位保持の困難
● 呼吸の制限
こうした生理学的変化により、
“触れられたくない日”が増えます。
しかし一方で、
● 軽い圧
● ゆっくりした動き
● 心拍に近いテンポ
● 体温の伝わる手のひら
これらは“安心”を促す要素として強く働きます。
私は長年、
触れられた瞬間に呼吸が整う場面を何度も見てきました。
逆に、強い撫で方や早い動きは緊張を生むこともあります。
触れ方ひとつで、
その子の終末期の時間は大きく変わってしまうのです。
■ 終末期に最も残るのは、「あなたとの関係性」
視覚が弱り、
聴覚が鈍り、
身体が動かなくなっても──
それでも最後まで消えないものがあります。
それが
“あなたとの関係性の記憶”
です。
動物行動学では、
深く結びついた相手の存在は
「社会的恒常性(Social Homeostasis)」
という形で長期間保持されることが分かっています。
つまり──
あなたがそばにいるという事実そのものが、
その子の安心の中核として機能している。
これは、身体や認知とは別次元の“結びつき”です。
だから、たとえ反応が薄く見えても、
あなたの存在は確実に届いています。
私はそれを、
何度も、何度も、現場で見てきました。
■ 終末期ケアの本質は「届く刺激だけを、丁寧に使うこと」
最期まで残る感覚は多くありません。
しかし、
残るものには強い意味があります。
匂い。
声。
触覚。
これらは、
“その子が世界とつながる最後の回線”です。
だからこそ、
終末期ケアで大切なのは、
● 過剰な刺激を与えない
● 届く刺激だけを、やさしく使う
● 「その子の感じ方」に合わせて変える
この3つに尽きます。
終末期ケアは、
“何をするか”ではなく
“どう在るか”が問われる時間です。
あなたが静かにそばにいて、
その子の呼吸と同じテンポでそこにいるだけで、
それは確かに届いています。


